東洋思想に「科学的な善悪」はあるか ― 戸塚宏先生の問いと、経営者の軸
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先日視聴した対談動画で、戸塚宏先生が強い言葉で論じておられた。いわく、現代の知識人の多くは西洋思想を猿真似しているにすぎない。むしろ仏教や儒教こそが「科学」であり、東洋思想には科学的とも言える善悪の基準がある。それを現代に復活させるべきだ――と。
戸塚先生は賛否の分かれる人物であり、その物言いのすべてに頷けるわけではない。だが、人を導くことに関する先生の一貫した姿勢、とりわけ「東洋思想には、人としての確かな筋がある」という確信には、私自身、深く共感する点がある。そして先生が投げかけられた問い――「善悪は人それぞれの主観にすぎないのか。それとも、古典には動かしがたい基準があるのか」――は、経営者にとって避けて通れない、本質的なテーマだ。
「人それぞれ」という名の判断停止
「価値観は人それぞれ」という言葉は、一見すると寛容で、成熟した態度に見える。実際、多様性を尊ぶ姿勢は組織に欠かせない。
しかし経営の現場では、この相対主義がしばしば判断停止の言い訳になる。不正に近いグレーな取引、社員の尊厳を損なう振る舞い――それらを前に「考え方は人それぞれですから」と言ってしまえば、組織から軸が失われていく。リーダーが最も問われるのは、まさに「これは譲れない」という一線を、どこに引くかである。
良知 ―― 善悪の基準は、内に宿る
戸塚先生の言う「東洋思想の善悪の基準」を、私は陽明学の「良知(りょうち)」に重ねて理解している。王陽明は、人には生まれながらに善悪を知る心の働き――良知――が備わっていると説いた。何が正しいかは、外から押しつけられる規則ではなく、本来すべての人の内側に宿っている。この意味で、東洋思想の善は「客観的」でありながら、同時にきわめて「内発的」なのだ。
そして陽明学のもう一つの核心が「知行合一(ちこうごういつ)」である。知っていて行わないのは、まだ本当には知らないのと同じ――王陽明はそう断じた。善悪をいくら頭で理解しても、行動に移されなければ意味がない。先生が「猿真似」と切り捨てられたのは、おそらく、言葉だけ立派で行動の伴わない知の在り方だったのだろう。学びを現場の実践に変えてこそ知は生きる、という一点では、私も同じ思いを抱いている。
「科学的」と呼びうる東洋思想の核
では、儒教や仏教を文字どおり「科学」と呼ぶのは正しいか。厳密には言い過ぎだろう。古典は反証可能な自然科学ではない。
だが、まったくの主観でもない。『大学』が説く「修身・斉家・治国・平天下」の順序、孔子の「仁」、仏教の「因果」の理法――これらは、長い時間をかけて人間と組織を観察し続けた末に残った、再現性のある経験則である。「人を欺けば信を失う」「私心で人を用いれば組織は乱れる」。時代や文化を超えて、おおむね同じ結果をもたらす。先生が「科学」という言葉に込めたかったのは、この再現性ではないか。
ただし「客観的な善」には危うさもある ―― 太宗と魏徴に学ぶ
一方で、「自分こそが客観的な善悪を知っている」という確信には、危うさもつきまとう。基準を持つことと、それを他者に振りかざすことは、まったく別だからだ。
ここで思い起こすのが『貞観政要』である。名君とうたわれた唐の太宗は、確固たる理想を抱きながら、家臣・魏徴の容赦ない諫言をあえて求め、受け入れ続けた。「兼ね聴けば則ち明、偏り信ずれば則ち暗」――多くに耳を傾ければ道は明るく、一つを偏って信じれば暗くなる。最も強い基準を持つ者ほど、自らを正す他者の声を手放さなかった。確かな軸と、深い謙虚さ。この両立こそが、太宗を名君たらしめたのである。古典が示す善は、他人を裁く物差しである前に、まず自らに向けられる鏡なのだ。
経営者にとっての結論
答えは、両極の真ん中にある。
善悪を「人それぞれ」と手放してはならない。陽明学の良知が示すように、人としての筋には確かに動かぬ核がある。だからこそ、私が人事評価の設計をご一緒するときも、業績や数字だけでなく「価値観」を一つの軸に据える。それは恣意的な好みではなく、組織を長く健やかに保つために検証されてきた基準だからだ。
同時に、その基準は太宗のごとく、まず経営者自身が日々問われるものとして持つ。確かな軸と、深い謙虚さ――その両方を併せ持つ人を、東洋思想は古来「器の大きいリーダー」と呼んできた。戸塚宏先生の挑発的な問いは、奇しくも、その古くて新しい真実を、私たちに突きつけているように思う。